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マッサンとエリ  二人の生涯  

 NHK朝の連続テレビ小説『マッサン』のマッサンとエリ、このモデルはニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝と妻のリサです。

 ドラマでは“亀山政春とエリーの人情喜劇”として描かれているが……。

 いろいろと脇役も面白く、見ていておもしろい。

 前田吟、ピン子、西川きよし、味があるなあ、それぞれ生き生きと演技しているように思える。


[iモード] 政孝は1894年「明治25年)、広島県竹原町(現・竹原市)で、亨保の時代から酒造りを営む竹鶴家の3男坊として生まれた。

 大阪高等工業学校(現・大阪大学)の醸造科から、大阪の大手洋酒メーカー・摂津酒造に入社し、モルト・ウイスキーを勉強するためスコットランドに留学した。

 ドラマでは、住吉酒造(西川きよし社長)の社員で、留学との設定だった。



[iモード] リタは1896年12月14日、病院を営むカウン家の長女として生まれた。

 幼少時から体が弱く、実務学校を卒業後は家事を手伝っていた。

 リサと政孝の出会いのきっかけは、医大生だった妹のエラが、同じ大学に通う政孝を自宅のハイティ(伝統のお茶会)へ招待したことだった。

 その後も末弟のラムゼイに柔術を教えるからとカウン家に通ううち、2人は恋に落ちた。

 
[iモード] グラスゴーの登記所に残る記録によれば、2人の結婚は1920年(大正9年)1月8日。

 立会人は、リタの末の妹・ルーシーと友人だけ。

 外科医のリタの父は正孝が渡英した年、47歳の若さで急逝していた。

 夫を亡くしたばかりの母は、娘を遠い異国に嫁がせることには、どうしても首を縦に振らなかった。



  事情を知った政孝は、「僕が、スコットランドに残っていい」と伝えた。

 だがリタの政孝への思い入れは強かった、単なる愛情以上のものがあったのだ。

 「あなたの夢は日本でウイスキーを作ることでしょう。私はその手伝いがしたいの」

 こうして晴れて夫婦となった2人は、同年11月、帰国し横浜港に降り立った。



[iモード]  正孝は寿屋(現・サントリー)に入社し、「初の国産ウイスキー」を完成させたが、売れなかった。

 ドラマでは、住吉酒造でかなり頑張るが、退社し、鴨居酒造へ入社するストーリーだ。


  本格ウイスキー特有の薫香が、当時の日本人には「焦げ臭い」となじまなかったのだ。

 そうだろうと思う、それにウイスキーは日本人にはきつすぎると、焼酎飲みの自分は思います。


[iモード] 諦めきれない政孝は1934年(昭和9年)、余市に大日本果汁株式会社(後のニッカウヰスキー)を設立。

 余市は、スコットランドによく似た冷涼な気候の地だ。

 同年10月には余市蒸溜所も完成。

 夫婦も翌年、余市に移り住んだ。

 リタは、正孝のためにおいしい和食をつくろうと努力しつづけ、梅干しを漬け、塩辛作りにも挑戦する。

 ドラマでは、ごはん炊きがうまくゆかず、おかゆかおこげばかりで、エリは苦労しているがだ。



  
この戦時中から大日本果汁の社員だった嶋宮辰二郎さん(85)は言う。

 「私は給仕と雑用係でしたから、入社した日に、奥さんにもご挨拶に行ったんです。 大きな人でね。

 172センチはあったんじゃないですか。

 スラっとスタイルがよくて、脚なんか細くて、美人でね~。

 どんな言葉を話すのかと思ったら、キレイな日本語でね。

 あんな言葉を使う女の人は、余市には誰もいなかったね」

 

 [雷]
余市で蒸留された最初のニッカウヰスキーが夜に出た翌1941年(昭和16年)、太平洋戦争が勃発する。

 日本と米英の戦争だ。

 リタには、最も過酷な時代の始まりだった。

 この時代がリタには本当に辛かったろう。

 日本中が、米英憎しで、狂っていたのだから。

 日本に溶け込み、日本人になりきったつもりでいたが、途端に敵国人扱いをされてしまう。

 特高警察に見張られ、近所の子どもに石を投げられた。

 帰化していても、人目を忍んで生活しなければならなくなった。



  終戦間際の1945年(昭和20年)7月、余市に空襲があった。

 しかし、工場が無傷だったことで、あらぬ噂が流された。


「余市の町民たちは、あれだけ目立つ工場に爆弾が1コも落ちないのは、奥さんが英国人だからだって。

庭で敵機のパイロットにハンカチでも振って合図したんだってね……。
そういうひどいデマが飛んだんですよ。
もう悔しくて悔しくて」
(嶋宮taさん)」


 なんとまあ、人の口に蓋をできぬとはいうが、なんというデマをいうんだろうか。

 真相は、米軍が占領後に接収するつもりで、洋酒工場を残したということだった。



[フリーダイヤル] 夫婦の間に実子はいない。

 終戦の年、正孝の姉の息子の威(たけし)を養子に迎えた。

 1951年「昭和26年)、威が歌子と結婚すると、リタは優しいお姑さんになった。

 1953年に孝太郎、2年後にみのぶが生まれると、嬉々として孫の世話に没頭した。

 孫の竹鶴孝太郎さん(61)は言う。

「僕が生まれたとき、お祖母さんは『ああ、これで私も本当の日本人になった』と言ったそうです。

生まれたときから家族という孫は心底、身近な存在に思えたんでしょうか」

 
 政孝とスコットランドを出て、日本へ来てから、一度も帰国しなかったリタ。

 終世政孝との愛を貫いたリタ、素晴らしい二人。


 もともと体があまり丈夫でなかったリタは、60歳を過ぎてからは入退院を繰り返すようになりました。

 64歳の誕生日を迎えた、わずか1ヶ月後の昭和36年1月17日、政孝(”マッサン”)に看取られ永眠します。


 「リタがついにこうなってしまったよ」

 弱音をはいたことのない政孝(”マッサン”)が、この時ばかりは泣きました。

 政孝はこの後二日間、葬式の準備を息子の威に任せたまま部屋に閉じこもり、火葬場にも行きませんでした。

 リタの墓は、余市蒸溜所を見下ろす美園町の墓地に建てられました。

 政孝はその時、自分の名前も一緒に刻みました。あとはただ日付を入れればいいようにして。

 1979年(昭和54年)8月に政孝逝去す。

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